それからちゃうど五日目の火曜日の夕方でした。その日はわたくしは役所で死んだ北極熊を剥製にするかどうかについてひどく仲間と議論をして大へんむしゃくしゃしてゐましたから少し気を直すつもりで酒石酸をつめたい水に入れて呑んでゐましたらずうっと遠くですきとほった口笛が聞えました。その調子はたしかにあのファゼーロの山羊をつれて来たり野原を急いで行ったりする気持そっくりなのでわたくしは思はず たうたう来たな とつぶやきました。
やっぱりファゼーロでした、まだわたくしがその酒石酸のコップを呑みほさないうちにもう顔をまっ赤にして戸口に立ってゐました。
「わかったよ、たうたう。僕ゆふべ行くみちへすっかり方角のしるしをつけて置いた。地図で見てもわかるんだ。今夜ならもう間違なくポラーノの広場へ行ける。ミーロはひるのうちから行ってゐてぼくらを迎へに出る約束なんだ。ぼく行って見てほんたうだったらあしたはもうみんなつれて行くんだ。」わたくしも釣り込まれて胸を躍らせました。「さうかい。わたしも行かう。どんななりして行ったらいゝかねえ。どんな人が来てるだらうねえ。」
「どんななりでもいゝぢゃないか。早く行かう。来てる人が誰だかぼくもわからないんだ。」わたくしは大急ぎでネクタイを結んで新らしい夏帽子を被って外へ出ました。わたくしどもがこの前別れたところへ来たころは丁度夕方の青いあかりがつめくさにぼんやり注いでゐてその葉の爪の痕のやうな紋ももう見えなくなりかかったときでした。ファゼーロは爪立てをしてしばらくあちこち見まはしてゐましたが、俄かに向ふへ走って行きました。ファゼーロはしばらく経ってぴたりと止まりました。「あ、こいつだ、そらね、」見るとそこにはファゼーロが作ったらしく一本の棒を立てゝその上にボール紙で矢の形を作って北西の方を指すやうにしてありました。
「さあ、こっちへ行くんだ。向ふに小さな樺の木が二本あるだらう。あすこが次の目標なんだよ。暗くならないうちに早く行かう。」ファゼーロはどんどん走り出しました。
ほんたうにそこらではもうつめくさのあかりがつきはじめてゐました。わたくしもまたファゼーロのあとについて走りました。「早く行かう、早く行かう、山猫の馬車別当なんかに見付かっちゃうるさいや。」
ファゼーロはふりかへってそんなことを云ひながら走りつゞけました。けれどもさっき見た二本の樺の木まではなかなかすぐではありませんでした。
ファゼーロはよく走りました。
わたくしもずゐぶん本気に走りました。
やっとそこに着いてファゼーロが立ちどまったときは、あたりはもうすっかり夜になってゐて樺の木もまっ黒にそらにすかし出されてゐました。
つめくさの花はちゃうどその反対に明るくまるで本統の石英ラムプでできてゐるやうでした。
そしてよく見ますとこの前の晩みんなで云ったやうに一一のあかしは小さな白い蛾のかたちのあかしから出来てそれが実に立派にかゞやいて居りました。処々にはせいの高い赤いあかりもりんと灯りその柄の所には緑いろのしゃんとした葉もついてゐたのです。ファゼーロはすばやくその樺の木にのぼってゐました。そしてしばらく野原の西の方をながめてゐましたがいきなりぶらさがってはねおりて来ました。
「次のしるしはもう見えないんだ。けれども広場はちゃうどこゝからまっすぐ西になってゐる筈だからあの雲の少し明るいところを目あてにして歩いて行かう。もうそんなに遠くはないんだから。」わたくしどもはまたあるきだしました。俄かにどこからか甲虫の鋼の翅がりいんりいんと空中に張るやうな音がたくさん聞えてきました。
その音にまぢってたしかに別の楽器や人のがやがや云ふ声が時々ちらっときこえてまたわからなくなりました。
しばらく行ってファゼーロがいきなり立ちどまってわたくしの腕をつかみながら西の野原のはてを指しました。わたくしもそっちをすかして見てよろよろして眼をこすりました。そこには何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すやうに青くかゞやいてそこらの空もぼんやり明るくなってゐるのでした。
「ファゼーロかい。」いきなり向ふから声がしました。
「あゝ、来たよ。やってゐるかい。」「やってるよ。とてもにぎやかなんだ。山猫博士も来てゐるやうだぜ。」「山猫博士?」ファゼーロはぎくっとしたやうすでした。「けれどもいっしょに行かう。ポラーノの広場は誰だって見附けた人は行っていゝんだから。」「よし行かう。」ファゼーロははっきり云ひました。わたくしどもはそのあかりをめあてにあるいて行きました。ミーロもファゼーロも何か大へん心配なやうでした。さっぱり物も云はなくなってしまったのです。さうなるとこんどはわたくしが元気がついて来ました。一体昔ばなしの通りのことが本統にあるのだらうか、それとも何かほかのことだらうか。山猫博士がここへ来て何をしてゐるのだらうか。もうどうしても行って見たくてたまらなくなりました。殊にその日はわたくしはまだ俸給の残りを半分以上もってゐましたしもしお金を払はなければならないとしてもファゼーロとミーロにご馳走するぐらゐ大丈夫だと考へたのです。「いゝよ、こんどはね、わたしについて来るんだよ。山猫博士なんか少しもこわいことはないんだから。」
わたくしはもうまっさきに立ってどんどん急ぎました。甲虫の翅の音はいよいよ高くなり青い木はその一つの一つの枝まではっきり見えて来ました。木の下では白いシャツや黒い影やみんながちらちら行ったり来たりしてゐます。誰かの片手をあげて何か云ってゐるのも見えました。
いよいよ近くなってわたくしはこれこそはもうほんもののポラーノの広場だと思ってしまひました。さっきの青いのは可成大きなはんの木でしたがその梢からはたくさんのモールが張られてその葉まできらきらひかりながらゆれてゐました。その上にはいろいろな蝶や蛾が列になってぐるぐるぐるぐる輪をかいてゐたのです。
うつくしい夏のそらには銀河がいまはたくしどもの来た方からだんだんそっちへまはりかけて南のまっくろな地平線の上のあたりではぼんやり白く爆発したやうになってゐました。つめくさのかほりやら何かさまざまの果物のかほり、みんなの笑い声、そのうちにたうたうみんなは組になって踊りだしました。七八人のやうではありましたがたしかにもうほんもののオーケストラが愉快さうなワルツをやりはじめました。一まはり踊りがすむとみんなはばらばらになってコップをとりました。そしてわあわあ叫びながら呑みほしてゐます。その叫びは気のせいかデストゥパーゴ万歳といふやうにもきこえました。
「あれが山猫博士だよ。」
ファゼーロが向ふの卓にひとり座ってがぶがぶ酒を呑んでゐる黄いろの縞のシャツと赤皮の上着を着た肩はゞのひろい男を指さしました。
誰か六七人コンフェットウや紐を投げましたのでそれは雪のやうに花のやうにきらきら光りながらそこらに降りました。
わたくしどもはもう広場の前まで来て立ちどまりました。
ちゃうどそのときデストゥパーゴがコップをもって立ちあがりました。
「おいおい給仕、なぜおれには酒を注がんか。」すると白い服を着た給仕が周章〔あわ〕てゝ走り寄りました。「はいはい相済みません。座っておいでだったもんですからつい。」「座っておいでになっても立っておいでになっても我輩は我輩ぢゃないか。おっと、よろしい。諸君は我輩のために乾杯しやうといふんだな。よしよし、ブ、ブ、ブロージット。」そこでみんなは呑みほしました。
わたくしは臆せてしまってもう帰らうかとも思ひましたがさっきファゼーロたちにあんなことを云ったものですから立ってゐることも遁げることもできませんでした。どうなるかなるやうになれと思ひ切って二人をつれて帽子をとりながらあかりの中へはいりました。するとみんなは一ぺんにさわぎをやめて怪げんさうな顔つきでわたくしどもを見ました。それからデストゥパーゴの方を見ました。
するとデステゥパーゴはちょっと首をまげて考へました。どうもわたくしのことを見たことはあるが考へ出せないといふ風でした。するとそばへ一人の夏フロックコートを着た男が行って何か耳うちしました。デステゥパーゴは不機嫌さうな一べつをわたくしに与へてから仕方なさうにうなづきました。
するとやはりフロックを着てテーモが来てゐました。そのテーモが柄のついたガラスの杯を三つもって来て、だまってわたくしからミーロ ファゼーロと渡しました。ファゼーロに渡しながらだまってにらみつけました。ファゼーロはたぢたぢ後退りしました。給仕がそばからレッテルのない大きな瓶からいまゝでみんなの呑んでゐた酒を注がうとしました。わたくしはそこで云ひました。
「いや、わたしたちはね、酒は呑まないんだから炭酸水でもおくれ。」「炭酸水はありません。」給仕が云ひました。
「そんならたゞの水をおくれ。」わたくしは云ひました。どういふわけかみんなしいんとして穴の明くほどわたくしどものことばかり見てゐます。わたくしも少し照れてしまひました。「いや、デステゥパーゴさまは人に水をごちさうはなさいませんよ。」テーモが云ひました。
「ごちさうにならうといふんでないんです。野原のまんなかでつめくさのあかりを数へて来たポラーノの広場で、わたくしは渇いて水が呑みたいのです。」
もう行きがかりで仕方ないと私は思ってはっきり云ひました。
「つめくさのあかり、わっはっは。」テーモはわらひだしました。デストゥパーゴもわらひました。みんなもそのあとについてわらひました。「ポラーノの広場もな、お気の毒だがデステゥパーゴさまのもんだよ。」テーモがしづかに云ひました。そのとき山猫博士が云ひました。「よし、よし、まあすきなら水をやっておけ。しかしどうも水を呑むやつらが来るとポラーノの広場も少ししらっぱっくれるね。」「はい。」テーモはおじぎをしてそれからそっとファゼーロに云ひました。「ファゼーロ、何だって出て来たんだ。早く失せろ。帰ったら立てないくらゐ引っぱたくからさう思へ。」ファゼーロはまた後退りしました。
「その子どもは何だ。」デステゥパーゴがききました。「ロザーロの弟でございます。」テーモがおじぎをして答へました。するとデステゥパーゴは返事をしないで向ふを向いてしまひました。そのとき楽隊が何か民謡風のものをやりはじめました。みんなはまた輪になって踊りはじめやうとしました。するとデステゥパーゴが「おいおいそいつでなしにあの〔数文字分空白〕といふやつをやってもらひたいね。」すると楽隊のセロを持った人が「あの曲はいま譜がありませんので。」するとデストゥパーゴは、もうよほど酔ってゐましたが「や、れ、やれ、やれと云ったらやらんか。」と云ひました。
楽隊は仕方なくみんな同じ譜で〔数文字分空白〕をやりはじめました。
みんなも仕方なく踊りはじめました。するとデストゥパーゴも踊りだしました。それがみんなといっしょに踊るのでなくてわざとみんなの邪魔をするやうにうごきまはるのです。
みんなは呆れてだんだんやめてぐるっとデステゥパーゴのまはりに立ってしまひました。するとデストゥパーゴはたった一人でふざけて踊りはじめました。しまひにはみんなの前を踏むやうなかたちをして行ったりいきなり喧嘩でも吹っかけるときのやうにはねあがったりみんなはそのたんびにざわざわ遁げるやうになりました。さっきの夏フロックを着た紳士が心配さうにもみ手をしながら何か云はうとするのですがデステゥパーゴはそれさえおどして引っこませてしまひました。楽隊はしばらくしかたなくやってゐましたがたうたう呆れてやめてしまひました。するとデステゥパーゴも労れたやうに椅子に座って「おい、注げ。」と云ひながらまたつゞけざまに二杯ひっかけました。するとミーロの仲間らしいものが二人で出て来てミーロに云ひました。
「おいミーロ、お前もせっかく来たんだから一つうたって聞かして呉んな。」「みんなさっきからうたったり踊ったりしてつかれてるんだから。」ミーロは「だめだよ、」と云ってその手をふりはらひましたが実は、はじめから歌ひたくて来たのですから、ことに楽隊の人たちが歌ふなら伴奏しやうといふやうに身構へしたので、ミーロは顔いろがすっかり薔薇いろになってしまって眼もひかり息もせわしくなってしまひました。
わたくしも思はず、やれ、やれ、立派にやるんだと云ひました。するとミーロはたうたう決心したやうにいきなり咽喉掻きはだけてはんの木の下の空箱の上に立ってしまひました。「何をやりませう。」セロの人がわらってききました。「フローゼントリーをやってください。」「フローゼントリー、譜もないしなあ、古い歌だなあ。」楽員たちはわらって顔を見合せてしばらく相談してゐましたが「そいじゃね、クラリネットの人しか知ってませんからクラリネットとね、それから鉦で調子だけとりますから、それでよかったら二節目からついて歌ってください。」みんなはパチパチ手を叩きました。テーモも首をまげて聞いてやらうといふやうにしました。
楽隊がやりました。ミーロは歌ひだしました。
「けさの六時ころ ワルトラワーラの
峠をわたしが 越えやうとしたら
朝霧がそのときに ちゃうど消えかけて
一本の栗の木は 後光をだしてゐた
わたしはいたゞきの 石にこしかけて
朝めし堅ぱんを かぢりはじめたら
その栗の木がにはかに ゆすれだして
降りて来たのは 二疋の電気栗鼠
わたしは急いで......」
「おいおい間違っちゃいかんよ。」山猫博士がいきなりどなりだしました。「何だって、」ミーロはあっけにとられて云ひました。「今朝ワルトラワラの峠に電気栗鼠など居た筈はない、それはいたちの間違ひだらう。もっとよく考へてうたってもらひたいね。」「そんなことどうだっていゝんだい。」ミーロは怒って壇を下りました。すると山猫博士が立ちあがりました。「今度は我輩がうたって見せやう。こら楽隊、In the good summer time をやれ、」
楽隊の人たちは何べんもこの節をやったと見えてすぐいっしょにはじめました。山猫博士は案外うまく歌ひだしました。
「つめくさの花の 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏まつり
酒を呑まずに 水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ぱっくれる」
ファゼーロは泣きだしさうになってだまってきいてゐましたが、歌がすむとわたくしがつかまへるひまもなく壇にかけのぼってしまひました。
「ぼくもうたひます。いまのふしです。」
楽隊はまたはじめました。山猫博士は、「いや、これはめづらしいことになったぞ。」と云ひながら又大きなコップで二つばかり引っかけました。ファゼーロは力いっぱいうたひだしました。
「つめくさの花の かほる夜は
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏まつり
酒くせのわるい 山猫が
黄いろのシャツで 出かけてゐると
ポランの広場に 雨がふる
ポランの広場に 雨がふる」
デストゥパーゴがもう憤然として立ちあがりました。
「何だ失敬な決闘をしろ決闘を。」
わたくしも思はず立ってファゼーロをうしろにかばひました。
「馬鹿を云へ、貴さまがさきに悪口を言って置いて。こんな子供に決闘だなんてことがあるもんか。おれが相手になってやらう。」
「へん、貴さまの出る幕ぢゃない。引っ込んでゐろ。こいつが我輩、名誉ある県会議員を侮辱した。だから我輩はこいつへ決闘を申し込んだのだ。」
「いや、貴さまがおれの悪口を言ったのだ、おれはきさまに決闘を申し込むのだ、全体きさまはさっきから見てゐるとさもきさま一人の野原のやうに威張り返ってゐる。さあ、ピストルか刀かどっちかを撰べ。」
するとデステゥパーゴはいきなり酒をがぶっと呑みました。ああファゼーロで大丈夫だ。こいつはよほど弱いんだ。わたくしは心のなかでそっとわらひました。
はたしてデストゥパーゴは空っぽな声でどなりだしました。
「黙れっ。きさまは決闘の法式も知らんな。」
「よし。酒を呑まなけぁ物を言へないやうな、そんな卑怯なやつの相手は子どもでたくさんだ。おいファゼーロしっかりやれ。こんなやつは野原の松毛虫だ。おれがうしろで見てゐるからめちゃくちゃにぶん撲ってしまへ。」
「よし、おい、誰かおれの介添人になれ。」そのときさっきの夏フロックが出てきました。「まあ、まあ、あんな子供をあなたが相手になさることはありません。今夜は大切の場合なのですからどうか。」すると山猫博士はいきなりその男を撲りつけました。「やかましい。そんなことはわかってゐる。黙って居れ。おい誰かおれの介添をしろ。テーモ。」
「はい。どうぞ、おゆるしを。あとでわたくしがよく仕置きいたします。」「やかましい。おい、クローノ、きさまやれ。」クローノと呼ばれた百姓らしい男が「さあ、おいらぢゃあね、」と云ってみんなのうしろへ引っ込んでしまひました。「臆病者、おいポーショ、きさまやれ。」「おいらぁとてもだめだよ。」デステゥパーゴはいよいよ怒ってしまひました。「よし介添人などいらない。さあ仕度しろ。」「きさまも早く仕度しろ。」わたくしはファゼーロに上着をぬがせながら云ひました。「剣でも大砲でもすきなものを持ってこいよ。」「どっちでもきさまのすきな方にしろ。」どこにそんなものがあるんだい。と思ひながらわたくしは云ひました。「よし、おい給仕、剣を二本持ってこい。」すると給仕が待ってゐたやうに云ひました。「こんな野原で剣はございません。ナイフでいけませんか。」するとデストゥパーゴは安心したやうにしながら「よし、持ってこい。」と声だけ高く云ひました。「承知しました。」給仕が食事につかふナイフを二本持って来てうやうやしくデステゥパーゴにわたしました。まるで芝居だとわたくしは思ひました。ところがデステゥパーゴはていねいにその両方の刃をしらべてゐるのです。それから「さあどっちでもいゝ方をとれ。」といって二本ともファゼーロに渡しました。ファゼーロはすぐその一本をデステゥパーゴの足もとに投げて返しました。デストゥパーゴは拾ひました。
そこでわたくしはまん中に出ました。
「いゝか。決闘の法式に従ふぞ。組打ちはならんぞ。一、二、三、よし。」
すると何のことはない、デストゥパーゴはそのみぢかいナイフを剣のやうに持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退りしましたしファゼーロは短刀をもつやうに柄をにぎってデステゥパーゴの手首をねらひましたので、三度ばかりぐるぐるまはってからデステゥパーゴはいきなりナイフを落して、左の手で右の手くびを押へえてしまひました。「おい、おい、やられたよ。誰か沃度ホルムをもっていないか。過酸化水素はないか。やられた、やられた。」そしてべったり椅子へ座ってしまひました。
わたくしはわらひました。「よくいろいろの薬の名前をご存知ですな。だれか水を持ってきてください。」
ところがその水をミーロがもってきました。そして如露でシャーとかけましたのでデストゥーパーゴは膝から胸からずぶぬれになって立ちあがりました。そして工合のわるいのをごまかすやうに、「ええと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれ給へ。」と勢よく云ひながらすばやく野原のなかへ走りました。するとテーモも夏フロックもそのほか四五人急いであとを追ひかけて行ってしまひました。行ってしまふとにはかにみんなが元気よくなりました。
「やい、ファゼーロ、うまいことをやったなあ。この旦那はいったい誰だい。」「競馬場に居る人なんだよ。」「いったい今夜はどういふんですか。」わたくしはやっとたづねました。
「いゝや、山猫の野郎来年の選挙の仕度なんですよ。たゞで酒を呑ませるポラーノの広場とはうまく考へたなあ。」「この春からかはるがはるかうやってみんなを集めて呑ませたんです。」「その酒もなあ。」「そいつは云ふな。さあ一杯やりませんか。」「いゝえわたくしどもは呑みません。」「まあ、おやんなさい。」〔以下二行分空白〕
わたくしはもうたまらなくいやになりました。
「おい、ファゼーロ行かう。帰らう。」
わたくしはいきなり野原へ走りだしました。ファゼーロがすぐついて来ました。みんなはあとでまだがやがやがやがや云ってゐました。新らしく楽隊も鳴りました。誰かの演説する声もきこえました。わたくしたちは二人、モリーオの市の方のぼんやり明るいのを目あてにつめくさのあかりのなかを急ぎました。そのとき青く二十日の月が黒い横雲の上からしづかにのぼってきました。ふりかへってみるともうあのはんの木もあかりも小さくなって銀河はずうっと西へまはりさそり座の赤い星がすっかり南へ来てゐました。
わたくしどもは間もなくこの前三人で別れたあたりへ着きました。
「きみはテーモのところへ帰るかい。」わたくしはふと気がついて云ひました。
「帰るよ。姉さんが居るもの。」ファゼーロは大へんかなしさうなせまった声で云ひました。
「うん。だけどいぢめられるだらう。」わたくしは云ひました。
「ぼくが行かなかったら姉さんがもっといぢめられるよ。」ファゼーロはたうたう泣きだしました。
「わたしもいっしょに行かうか。」「だめだよ。」ファゼーロはまだしばらく泣いてゐました。「わたしのうちへ来るかい。」「だめだよ。」「そんならどうするの。」
ファゼーロはしばらくだまってゐましたが俄かに勢よくなって云ひました。
「いゝよ。大丈夫だよ。テーモはぼくをそんなにいぢめやしないから。」
わたくしは、それが役人をしてゐるものなどの癖なのです、役所でのあしたの仕事などぼんやり考へながらファゼーロがさう云ふならよからうと思ってしまひました。「そんならいゝだらう。何かあったらしらせにおいでよ。」「うん、ぼくね、ねえさんのことでたのみに行くかもしれない。」「あゝいゝとも。」「ぢゃさよなら。」
ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかへりふりへえり帰って来ました。うちへはいってみると、机の上には夕方の酒石酸のコップがそのまゝ置かれて電燈に光り枕時計の針は二時を指してゐました。